スタッフ|ハンガリー映画 タクシデルミア〜ある剥製師の遺言〜2008年3月、シアター・イメージフォーラムほか、全国順次ロードショー

3世代に渡る家族の全く”異なる”人生を描いた長編物語


『タクシデルミア』は、家族小説のような作品であるが映画だ。しかし家族映画ではなく、作家主義の映画である。僕の狙いは、ただの個人的な作家主義の映画を作ることではなく、後世に残るような自分がどうやって生きてきたかという歴史を反映させた映画を作ることだった。

家族小説のコンセプトといえば、まず浮かんでくるのがトーマス・マン風の作りの歴史物語だ。同様にこの映画も、祖父、父、息子の3世代で構成された歴史物語の体を成している。家族の礎を築く祖父は、この世界を動かし始める原動力、あるいは創造主であり、父親は辛うじて祖父から継承したものを息子へと繋ぐ。しかしその息子は、父親と祖父の存在価値を否定する。


しかし本作ではそれに加え、3つの”異なる”人生が描かれた壮大な物語を作ってみたかった。各エピソードには明確なつながりがなく、観客には想像力が要求される。
ただ、一連のイメージやスタッフらの美的センスによって唯一無二でありながら、伝統的な家族小説の匂いを感じさせる作品にすることができたと思う。



「人間の肉体」と「命の極限」を模索


作家ラヨス・パルティナ・ナジのある短編小説の中で、僕は自分と共通する世界観を見いだした。作中の2つのエピソードは、その小説を基にして作り、三代目の孫息子ラヨシュの話は、僕のオリジナルで付け加えた。

3つの物語の中核になっているのは、人間の肉体だ。肉体は欲望に征服されると、様々に変化し、その存在自体が様々な美学論を生み出す。時にそれはおぞましく美しい。この映画で僕は「人間の肉体」と「命の極限」とを模索している。絶え間なく続く可笑しいほどに悲惨なストーリーには、目に見える残忍さよりもずっとパワフルな感情の残忍性が表れているはずだ。



3つの異なる―物語、時代、世界―から見えてくるもの


僕はヴェンデルのセックスシーンで、映画製作のタブーを破り、勃起した男性器を見せたかった。しょせん低い身分に甘んじるしかない彼は、性器により快楽と解放に到達したいと望む。同時に僕は、この“ポルノ映画風”シーンに、20世紀初頭のセックス写真を見るときのような気持ちを味わえる、少しふざけた雰囲気を加えたかった。



カールマーンが挑むスポーツ“大食い”は、高い身体能力が必要とされるほかのスポーツと何ら変わりなく、そのことはほぼ世界各国で認められている事実である。彼の巨体は、相撲取り並の桁違いの体格、ウエートリフティング選手並みの強靭な筋肉、バスケットボール選手並みの高身長、さらに苦行僧並みの精神までも併せ持つ。ところが大食い競争は、オリンピックの公式競技として扱われたことがない。時代的な評価を得ていれば、その可能性は十分あったはずだ。これは不快で野蛮な行為ではなく、勝利するためには巧みな技が求められる、称賛に値するスポーツなのだ。



肉体が芸術作品に変わるとき、ラヨシュという人物は消える。彼は、もはや名もなき素材から出来た胴体像(トルソー)のみを残し消え去る。冒涜的なプロジェクト―神の創造を模倣し、“完璧なる芸術作品”の創作を試みること―により、彼はアーティストとしてだけでなく肉体における不滅性を得る。その体―いずれ朽ち果てるにせよ、自然界が作り上げた完璧な作品―は、展示会場に並べられることになるだろう。デュシャンの泉とミケランジェロの「ダビデ像」の間にでも並べられるんだ。